こんにちは、参加作家のキヤ です。 ゲストトーク第5弾(最終)として、 アートユニット・Paul Hommage and Yumi Takeuchi (ポール・オマージュ&竹内佑未)さんとの往復書簡を公開します! Paul Hommage and Yumi Takeuchi (ポール・オマージュ&竹内佑未)プロフィール : Paul Hommage (1988*) 2013 Master degree of Arts in University of Arts and Design of Nancy (ENSAD) Nancy, France 竹内佑未(1991*) 2020 金沢美術工芸大学大学院博士後期課程美術研究領域油画分野修了 2013年から共同で制作を開始。現在はフランスに滞在しながら、アニメーション、版画、ドローイング、映像インスタレーションを制作中。 instagram : @ytph.fr (https://www.instagram.com/ytph.fr/) homepage : www.ytph.fr キヤ (2021/3/7/Sun)ポールさん、竹内さん、お久しぶりです! 金沢美術工芸大学での先輩にあたるお二人ですが、直接やり取りをするのは何年ぶりでしょうか。 ポールさんと竹内さんは共同制作によってアニメーションやビデオ作品、ドローイングなどを国内外で精力的に発表し続けているアートユニットです。 現在はフランス在住とのことですが、今回は敬愛するお二人と再び交流する機会を得られてとっても嬉しいです。 (在学中、お二人の金沢のご自宅で真夜中に黒沢清監督の「回路」を観て震え上がった思い出が懐かしいです。) 今回、私たちのグループ展「ここではないどこか」の記録映像と、同時に上映している過去作品『くじらの湯』『かえりみち』をご覧いただきました。 私が新作として展示しているのは、プロジェクター投影によるループアニメーション(題して『天ゆ』)と、そのイメージ過程に生まれたイラストレーションです。 アニメーションの方は、砂漠に立つ銭湯の煙突が女の子を乗せて空へと伸びていき、お湯を吐き出して宇宙に銭湯を生み出すという内容になっています。 『天ゆ』冒頭シーン グループ展のテーマにもある通り、2020年は人々の直接的な交流が難しくなった年です。 そんな中で感じたのは、それまで賑わっていた、人々の集う場所が機能しなくなってしまうことに対する寂しさでした。 はじめに寂れてしまった煙突を描いてみたのですが、その錆や煙がふとロケットのようにも見えて、宇宙(ここではないどこか)で形を変えてまた機能していく様子を表現してみました。 月が湯に浸かっていたり、星雲のようなものが湯気っぽく見えたり、こんなお風呂があったらいいな・・・という感じで作っていました。 コロナ状況による閉塞的な空間でのストレスから、とにかく広大な場所で癒されたい気持ちがものすごく反映されていると思います。 このアイディアに行き着く前には、イラスト展示の右側のイメージボードのように、銭湯と居酒屋が合体したような楽園的な空間をアニメーションにする構想をしていました。 銭湯と居酒屋というと、剥き出しの裸体と心が集う場所ですが、過去作品にもみられるように大阪の下町に生まれ育った私の原風景的なものが入り込んでいる気がします。 ポールさん、竹内さんのお二人は近年の状況の中、活動していく上で何か変わったことはありましたか? 銭湯と居酒屋が合体したような楽園をイメージしたもの また、今回は私にとってあまり経験のない、アニメーションの空間展示という発表形式になりました。 上映として流れていくものではなくて、展示としてそこにあり続ける映像作品、と考えるとどういう形に落とし込むべきか、結構難しかったなと思います。 私は油画出身なので作品を空間に展示することは自然な形式ですし、その延長でアニメーションを始めたはずです。 しかし普段アニメーションを作る際には起承転結や始まりと終わりというような流れを無意識的にイメージして、いつの間にか内容が膨れ上がっていくことで、最終的にスクリーン上映として発表することに馴染んでいったように思います。 でも、正直なところどんな形式で発表するのが自分にとってベストなのか、まだ確信はないです。 ポールさん・竹内さんのお二人はドローイングなどと共に、映像作品も空間に展示する形式をよくとられていると思うのですが、映像作品をシアターのスクリーンで上映しようとか、映画祭に出品しようと思うことはありますか? Paul Hommage and Yumi Takeuchi (2021/3/14/Sun)竹内 : おひさしぶりです。またキヤさんとやりとり出来て、とてもとても嬉しいです。 大阪で一緒に遊んだのが、もう五年くらい前になるでしょうか。最近あるラジオで、民族学博物館に物に憑く先住民のおばけがでるという話を聞きました。またいつか遊びに行きたいです。 新作「天ゆ」と、アニメーション「くじらの湯」と「かえりみち」を鑑賞させていただきました。いずれの作品にも、キヤさんが生まれ育った大阪の下町の確かな空気が漂い、過去二作品では、それに音や匂いのような要素が生々しく加わって、一つの世界として外に向かって確立しているのが感動的でした。アニメーションを観ながら、私がキヤさんと一緒に歩いた五年前の大阪のあの場所や路地の記憶もふ~っと浮かんで重なって、不思議な記憶の追体験をしました。 左:『くじらの湯』 右:『かえりみち』 私たちは昨年の七月から、フランスで生活をしています。 最近はスタジオで作業が出来るようになったので、毎日を窮屈には感じていません。ただ、居酒屋や、銭湯、外に漏れた人の生活空間などの、日本の湿った空気感のようなものは、コロナで外出が制限される以前から、とても恋しく思っているものの一つです。 作品制作で変わったことといえば、これまで大体三ヶ月間を一つの区切りにしていたのを、今は一年以上かけてじっくり進めようとしていることでしょうか。一つのプロジェクトのもと、短編アニメーションの制作と、映像インスタレーションの二つを完成させたいと考えています。 2018年頃からぼんやりと、物語を作りたいと思っていました。アニメーションに長期間向き合うことを決めたきっかけとしては、実験的に共同制作を行うなかで、アニメーションが私たちの個々の違いを全てを迎え入れる制作領域であるということを実感したのが、大きかったかもしれません。 「簡単にすぐに物が手に入り、映像も、イメージも、一日に大量に見ることができる現代が、例えばいつか機能しなくなり、じゃがいもが簡単に買えなくなってしまったら、私たちは土を耕し、時間をかけて世話をして、食物を得なければならなくなる。その過程に膨大な労力と、時間と、そして多くの失敗を私たちは費やさなければならないが、その経験や、偶然生まれるもののなかに美しさが宿っている。時間がかかり、いつも疲れ果てるアニメーションの作業も、それとよく似ている」 今日、ポールがこんなことを言いました。 畑のなかに共生する、繁殖力の強い植物、弱い植物、土の中の生き物やミネラルが、それぞれのために生きながらも一緒になって場所を作っている。あーでもないこーでもないと意見やイメージをやりとりしながら、時間をかけて作るアニメーションの制作領域も、確かに畑と似ているのかもな、と思いました。 キヤさんにとって、アニメーションはどういう場所なのでしょうか。今は会社でお仕事をしながら、制作をしていると聞きましたが、個人の制作と、誰かと一緒にプロジェクトを進行すること、その行き来をどう感じているのかも、聞いてみたいです。 ポール : キヤさんのアニメーション作品で面白いと感じたのは、カメラモーションと、アニメーションの全体的な物語の中にある短いループ運動です。絵具の質感と、抽象的な形によって作られる異質な空間の数々も好きな要素の一つです。また、これは私の個人的な見解ですが、ダイナミックなカメラの動きというのは、日本人のアニメーション作家の作品に共通して見られる特有のもののようにも感じています。 空間展示、インスタレーションを見る際の私の視点は時間と共に変化していますが、現在は、ヘテロトピア的空間へ導いてくれるような展示への憧れがあります。 今回のグループ展の展示空間は、私にとっては綺麗すぎるように感じられました。 どのような方法で作品を見せるのが自分にとってベストなのか確信がない、というキヤさんの言葉がありましたが、それは、作品をベストな方法で存在させるために、どのように展示すれば良いか、に置き換えられるのではないかと思いました。 (今回のグループ展示に関して言えば、作品が他の作家の作品とどうコラボレーションするかなど。) もちろん、それぞれの展示によって、ルールやコードは異なりますが、作品が求める空間を作り上げることが私は大切だと考えています。 私が映像作品を作り始めたとき、映像 / アニメーションとは何か、というのを考えました。それは、プロジェクションの光なのか、時間の幻想なのか、それとも動きで書くことなのか…。もちろん正しい答えはありませんが、その時の自分や作品に合わせ、その都度自分の答えを明らかにしておくことは重要だと思います。 キヤさんの作品では、様々な時間が交差しています。 例えば作品「くじらの湯」では、ループや紋中紋の時空間もあると同時に、始まりと終わりの時間軸もあります。 始まりと終わり、タイトル、キャラクター、あるいはスクリーンの長方形…などの要素を含む時間軸を作品に選択した場合、作品は映画のコードに属します。そこでは同時に、どのように展示されるかについても、おおよそ選択された状態になっています。 しかし、この要素の構造を一つでも壊した場合、作品は同じにはなりません。 例えば画家(キヤさんも油画を描いていましたね)は、絵画のフレームに対し疑問を投げかけます。ルネサンス期以降あるいはそれ以前から、画家は絵画の境界はどこにあるのか、建築的な空間と絵画をどのように融合させるか、という問いを持ち続けています。映像作家としては、そこに時間、光、そして新しいメディアに特有の概念などを加え、疑問を投げかける必要があるでしょう。 キヤさんは、今、どんな展示あるいは作品を見たいと思いますか? キヤ (2021/3/21/Sun)お返事をありがとうございます。 竹内さんに私の大阪の地元を案内したのはとても良い思い出で、あの場所のムードを作品から思い出すと言っていただけて嬉しい限りです。過去2作品では両親について向き合うことで自分の存在を確認しようとしていて、同時に心に強く残っている地元の風景を描きたいと思っていました。 実は「くじらの湯」の舞台となっている銭湯にも、大阪に滞在された時に一緒に行っているんですよね。(泊まったアパート隣の銭湯です。)当時は作品化するとは思ってもみませんでしたが、不思議な巡り合わせだなぁと思います。 民族博物館に先住民のおばけが出るというのは初耳ですが、 あの時たくさん撮った写真に何か写り込んでいないでしょうか(笑) また行きたいですね。 「くじらの湯」の舞台、キヤ の地元の銭湯 お二人の近況について、大変な状況を経ても変わらずに制作活動を続けられている様子と、 良い意味で作品に対する新しい試みという変化があったということ、お聞きできてよかったです。 これまで共同制作の作品を鑑賞させていただきながら、閃きやアイディアを新鮮なうちに画面に落とし込んで制作されている感じがしました。ですが今回、一年以上かけてアニメーションで物語を意識した作品を制作されるとのことで、お二人の体験や考えを融合または共存させながら、一体どういう物語に結実するのか、それが私たちにどう響いてくるのか、今からとても興味深いです。 まとまった尺のアニメーションを完成させるには途方もない時間を積み上げなくてはなりませんが、一人で作っていても、その長い創作期間の間に様々な場所や人から影響を受けて最終形態は如何様にも変わっていくなぁと思います。 また、プロダクションにおける大人数での制作では監督という絶対的な存在がいる中でも、部分を担当する個々のクリエイターから滲み出るスタイルや考え方、偶然の閃きによって作品が形作られていき、最終画面の中で一体となっていて、それが感動的です。確かに植物を育てる畑の中に共生する生き物たちの様子に、イメージが重なります。 私にとって自己表現と商業的なチームプロジェクトは文字通り畑違いではあるのですが、今はどちらの可能性にも興味があって、場違いかもしれない土を双方に運びながら、何か新しくて面白い実りがないかなぁと期待している状態です。 (とはいえ私は組織の中で繁殖力の弱い微力な要素なので、大それた事は言えませんが・・・・) ところで、『L’arbre dans la ville』や『Le tronc et les branches』は私が特に好きなアニメーション作品の一つですが、 植物と人の営みというテーマはお二人にとっての関心事の一つなのでしょうか。 『L’arbre dans la ville(木と都市)』 http://www.ytph.fr/oeuvre/larbre-dans-la-ville 『Le tronc et les branches (幹と枝)』 http://www.ytph.fr/oeuvre/le-tronc-et-les-branches 自分が今観たい作品・展示は・・・なんでしょう。 広い意味になりますが、個人のもつオリジナリティがアニメーションによって新しい言語となっているもの、 そして映画祭などの場で多様な観客たちが集中し一体となってその作品を鑑賞していると感じられる瞬間が、自分にとってとても価値があります。 発表形態として極めてベストな道は初めから自分の中にぼんやりあるものの、油画を発表していた頃と違って失ったものもあると感じています。長時間観客をスクリーンの前に縛り付ける以上、ある程度の分かりやすさを提供する工夫をしないと伝わらなかったり苦痛を強いることになるため、湧き出てくるものを純粋に形作るだけでは、そういった場で注目してもらえないような気がして、そこが一番自分を迷わせている部分かもしれません。 今回の展示では一つのテーマをもとにそれぞれが新作を制作し、どのような空間を作るのかは搬入現場で初めて分かったという流れでした。 普段上映や放送や配信が主な発表の場となっているアニメーション作家の私たちとしてもあまり機会の無い実験的な試みだったと思いますが、誰かの世界の時間と同時並行に自分の作品の時間が共存している空間は新鮮でしたし、上映ほど「分かりやすさ」を取り入れて作らねばという意識もなく、この形態だからこそ発展させていけるような、可能性を感じる良い機会になったと思います。 Paul Hommage and Yumi Takeuchi (2021/3/26/Fri)ポール・竹内: お返事ありがとうございます。 自己表現と商業的なチームプロジェクトは文字通り畑違いではあるのですが、今の私はどちらの可能性にも興味があって、 場違いかもしれない土を双方に運びながら、何か新しくて面白い実りがないかなぁと期待している状態です。 この一文を読んで、次にどんな変種がキヤさんの作品として誕生するのか、とても楽しみになりました。 キヤさんの言うように、アニメーションの、一と多が共存するような面白さは、個人もプロダクション製作にも共通してあるのかもしれませんね。そして、私たち自身、アニメーションの構造そのものに面白さを感じているのだなと改めて思いました。10分、15分という時間を1年以上かけて作ったり、2時間を何百人が一緒になって数年かけて作るって、よく考えると不思議でおかしいことで、でもそこから変てこな時間の世界が生まれないはずがない。そんなアニメーションに動かされるように制作するのって、他の制作とは別の心地よさもある気がします。 2017年に制作した『L’arbre dans la ville (木と都市)』、『Le tronc et les branches (幹と枝)』は、フランスのナンシー市から依頼を受け制作した3点のアニメーションのうち2点です。 「根」、「幹と枝」、「木と都市」という、3つの植物に関連するテーマが依頼を受けた時点であったせいか、制作当時は観念的に「植物」を捉えていた気がします。 ただ、『L’arbre dans la ville(木と都市)』に関して言えば、この制作をきっかけに「都市」の構造に二人で興味を持ちました。これまで二人で絵を描くときに感じていた窮屈さが、この台湾の風景を描いているときには不思議と感じなかった。 何でかな、と後から考えたら、それは別々の絵が「都市」の集合体のイメージのなかでは共存することができたからでした。そこから「Ubiquity」という作品も制作したりしました。 『Ubiquity』 当時の私たちは、植物や動物といったものたちを作品中の対象として、自分たち人間との間に一線を置いた地点から見ていた気がします。今はその間に観測地点をおいて、しまいにはできるだけ近づいて、一緒になれないかな、と想像していて、それは今作ろうとしている作品で観せられたらいいなと思っています。 ちなみに、去年制作した『Rebound』は、現在制作中のアニメーションのプロローグ的位置にあるアニメーションです。 『Rebound』 http://ytph.fr/oeuvre/rebound-vosten キヤさんが観たい作品、展示をお聞きしましたが、それに対する答えに私たちもうんうんと頷きました。 映画館での上映経験がない私たちにとっては、他の人たちを作品の時間を一緒にするというのは未知の経験で、とても興味があります。 展覧会は、作者の見ることに誘い込む工夫や、観客の見る努力もある程度要求されて、緊張感のある空間に感じることが多くありますが、映画館は、大きなスクリーンに映る世界に人はリラックスしながら(苦痛を感じながらも?)入り込めるというか、一人一人が好きなように過ごせるのが良いなと思います。見るための空間が準備されている映画館と、空間そのものを作る必要がある展覧会は、全く別の見方が発生する場所として面白い。今後は私たちもこの二つの場所を行き来するような制作をしたいと考えています。言語や業界など諸々コードも違うし、絶対に大変だろうけれど。。またキヤさんにはいろいろと教えて欲しいです。 最後に、キヤさんが関心を持っていることは何ですか?という質問をさせていただきたいです。 今のキヤさんの頭のなかにどんなものが漂っているのか、制作に関係あるなしに関わらず、ぼんやりとでも良いので、聞いてみたいなと思いました。昨日のものでも、今日のものでも、なんでも。 キヤ (2021/3/27/Sat)二通目のお返事、ありがとうございます! 都市のイメージが共同制作の可能性の幅を広げたというお話、とても面白いですね。 『L’arbre dans la ville(木と都市)』では竹内さんとポールさんの絵の境界ははっきりと見えずに溶け合って、その場所の時空間として生々しく成立しているように感じられますが、 『Ubiquity』ではタイトルに「ユビキタス」とあるように、一つの場所であるけれど複数の時間と視点が混在しているような作品ですね。境界線が複数存在しているパッチワークのような形態も、そこに住まう人々の視点によって無限にイメージが増殖していく都市の在り方のようで、共同制作の試みとしても興味深いです。 また、お二人の作品の中で「道具を扱う手仕事」を描いた作品が多く見られるのも気になっていました。 どことなく、道具と共に進化してきた人類の原初を想起させるような雰囲気に惹きつけられます。 「2本の手」という要素が繰り返し登場する『Rebound』では宇宙誕生のようなスケールを感じましたが、より根源的な世界の中で、人間とそれぞれの生命がどのように描かれていくのか、興味津々です。 The Newton case http://www.ytph.fr/oeuvre/newton-case そして次回の作品が、お二人にとってこれまでに経験のない「映画館での上映」になるのだとしたら、また別の客層や私たちの発表の場とも交差する可能性もありそうで、気が早いですがワクワクしています。 この対談の目的としてもそうですが、お二人の活動をアニメーション業界の人々に知ってほしいという思いが強くありまして、そんなきっかけに繋がってほしいと思います。 作品の完成を楽しみに、これからも応援しております。 最後に、今私の中にぼんやり漂っているのは、「他者」という存在に関してです。 (いきなり冷たい響きをもつ話題に突入してしまいましたが。。。) 東京で数えきれない人々と毎日すれ違う中、コロナで「内と外」という意識が強調され、孤独感も増大し、個人的には大きな別れを経験するなど色んな事情が起因していますが、人それぞれの違いや、他者とどう関わって生きていくかをシビアに考えることが今までよりも増えました。もはや人生のテーマで、直接制作に関わるかはわかりません。 しかしこれまで、自分が感じてきた精神的な困難はその時々の作品の中に形を変えて現れていて、そこで新たな視点を得て前に進めることが過去に何回かあったので、今回もそんな感じで乗り越えられたらな、と思っています。 別の視点だと、今までの作品では極力、ストーリーらしいものを入れず、作中に登場するものたちの感情を抑えていました。人間が出てこようが「モノ」としての扱いに近く、現象を客観的に描くことを意識していました。今でもそういう作品を観たり作ったりするのが好きです。 ただアニメーターになってから、「動きの機微によって描くものに芝居をさせる」という当たり前の姿勢に驚いて、そこまで登場人物(あるいはモノ)に近づいて制作したことなかったなぁとふと思ったんですよね。 それは「他者」を真摯に描くことにも置き換えられるかもしれません。 そういった面でも、自分の中に生まれた新しい興味を育てて、何か次のもので挑戦できたらいいなと思ってます。 ポールさん、竹内さん、ここまでの往復書簡をどうもありがとうございました! 無限に続けたい気持ちですがここで展示の会期がギリギリになってしまいましたので、区切らせていただきます! 久しぶりにやりとりが出来て、創作意欲も高まり、とっても楽しかったです。 次にお会いしたとき、また色々お話ししましょう~!! 以上、Paul Hommage and Yumi Takeuchi さんとの往復書簡でした。 ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます! 普段私は個人でもプロダクションでも、アニメーションの世界で「スクリーン」を意識してきた分、それは表現のための一つの手法に過ぎないということを忘れがちでした。 今回の展示の経験と、発表形態を様々に横断する竹内さん・ポールさんの活動を垣間見たことで、自分の中のアニメーションの捉え方も広がったように思います。 展示にご協力下さったアキバタマビ21のスタッフ様、そして参加作家の皆様、素晴らしい機会をありがとうございました! キヤ 2021/3/28 Comments are closed.
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