こんにちは。若林です。参加作家とゲストとの対談・第二弾ということで、
画家・映像作家の石田尚志さんに展覧会をご覧頂きトークを致しました。 ★ゲストプロフィール(敬称略) 石田尚志 1972年東京生まれの画家/映像作家。多摩美術大学教授。 線を一コマずつ描いては撮影するドローイング・アニメーションという手法を用いて、 空間のなかに増殖する線や移動する点といった運動性を介入させ、空間の質をさまざまに変容させるインスタレーションを 発表している。 https://www.takaishiigallery.com/jp/archives/4327/ 若林は多摩美術大学映像演劇学科(※1)に在籍していた際、石田先生のゼミに所属しておりました。 卒業してから随分と経ちますが当時のゼミに参加するような気持ちで臨みたいと思います! ※1:造形表現学部(夜間)映像演劇学科、現在は募集停止。 =========================================== 若林: まず展示の感想みたいなのをお聞きできたらと思います。 石田先生: いやあの、えっとね、若林さんのモニターは、あれは裏はどういう風になってるんですか?あれブラウン管? 若林: はい、ブラウン管です。 石田先生: 本当のブラウン管? 若林: 本当のブラウン管です。ヤフオクで82年?製かな、買ってきて。もともとアニメーション自体はデジタルで作画していて、フルHDの映像なんですがそれを古いモニターに投影して見たいと思いまして。この映像をこのモニタで投影するにはいくつも変換が必要でいくつものケーブルが繋がってるんです。 まず映像をUSBに入れてメディアプレイヤーに繋ぎ、そこからHDMI伸ばして、AV端子に変換して、更にAVをUHF端子に変えなきゃいけないのでRFコンバーターっていうのをゲットして繋ぎました。 石田先生: 画角は違うの? 若林: いや意外にも16:9で画角は一緒でした。ですが、端子を挿す穴が現存しているものだと直では挿せなかったんです。 石田先生: へえ、すごい。 若林: テレビもHDMIもAVも変換器も結構も簡単に入手することが出来たんですけど、RFコンバーターだけ色んなの買って試して失敗して、秋葉原歩き回って… 石田先生: そうですね、秋葉原探すしかないですよね。 若林: でも結局、個人で変換器作っている方からネットで購入してなんとかなったっていう… だから、モニターにちゃんと写ったときは、嬉しくて万歳しちゃいました。テレビが点いたぞ〜!って。 石田先生: すごいですね、それは。あれは驚きましたよ。綺麗だったし。それが不思議で、すごくブラウン管だよなあと思いながら、けどなんでこんなにちゃんと映っているんだろうって。見事でしたあれは。 なんかあとは、若林さんの作品の後ろに水をクルクル回す作品があって。 若林: りょこさんの作品ですね。 石田先生: あれも面白いですね。音がね。 若林: そうなんですよ。実際に画面の中で鳴っている音を、手前のレバーを回すことで、画面の外のこちら側でも鳴るという。 石田先生: なんだろう、インスタレーションというか、ああいう、ものがある事によって、特にアニメーションの繰り返しとか反復ということがとても強調されて面白いなあと思います。で、その短い繰り返しの中で見入ってしまうのはいったい何故なんだろうって。 若林: そうですよね。他の作品もつい繰り返し映っていると見入ってしまって…
◆上映するアニメーション、展示するアニメーション
石田先生: もうひとつの部屋では上映形式で過去作品を上映していて、ああなると始まりがあって終わりがあるという映画なわけだけど、それとは別に、このブラウン管や小さな水車の部屋の作品たちのように、短い反復だけで見入ってしまう映像になにかアニメーションの秘密があるような、そんな感じがして面白かったです。 若林: ありがとうございます。 なんか今回の展示が、そもそも石田先生からアキバタマビの企画書を出してみませんか、というお誘いを頂いての実現でした。もともと私含め参加作家は今まで劇場空間の中で一つのプログラムに組み込んで上映する、という発表形式を主にしていて、アニメーションを展示するという経験は全員あまり経験がなく初めてという方がほとんどです。 石田先生: なるほどなるほど。映像を劇場ではない場所で初めてやれたのですね。 若林: 展示をするにあたって、今回アニメーションはすべて新作でとなっています。働きながら、私はまだ大学院に在学中なんですが、そういった状況の中でどう今回のアニメーションの展示を魅力的に実現するのか課題がありました。例えば今まで通り上映を想定した作品を新しく作るとなると、絶対に時間的制約や音楽・音響に対する技術的なハードルや、MAなどの実際の費用的課題があるため現実的ではないと。 映像作品は様々な要素が加わって一つの作品になると思うのですが、例えば物語・演出・作画自体について・音・技法・世界観・キャラクターなどなど。一本の作品となるとこれらが組み合わさって適したバランスをもってして完成になります。それを実現するには先ほどの理由により難しい。そういった外側の制約があるならば、それは受け入れて。アニメーションを構成する一要素に着目した展示をやりましょうとなりました。 石田先生: そういう意味で成功していたとおもう。展示することと上映する事は真逆なもので。一方の部屋は上映形式にしていたけれども、椅子に座ってもらって、作品の中に没入させるわけですよね。 一方の展示は「もの」があるように「映像がある」ってことだから、古いモニターのブラウン管があったり、撮影に使った原画であったり、装置であったりそういったものが置かれる事によって、作られた時間や反復する時間の構造とか、そういうものに思いを巡らせる場所だった。例えば、水クルクル回すやつって別に映像にリンクしているわけじゃないじゃないですか。それが不思議な音によってリンクしている感じというか、参加している感じになるんですよね。全然繋がってなくてもインタラクティブになってしまうのは何故なんだろうとか。 それと、原画や撮影に使用した物体の展示も、映像との対比をいろいろ考える。どちらも面白いんだけどその差が面白いのかなって。 若林: 私が思ったのは、展示でのアニメーション・上映でのアニメーションについて、先生のおっしゃった言葉にもリンクすると思うのですけれども… 両者を比較したとき、上映は(言葉は強いですけれども)そのある一定の時間、作品の為に観客を拘束する、作家側が始まりと終わりをコントロールしているものだなと認識しているのですが、展示は観客が始まりと終わりを決めるもので、且つ展示環境が映像の中身に作用するなと感じております。というのも、自分の作品を例に挙げると、今回の作品には裏テーマみたいなのがありまして「深夜に違うどこか遠い場所からふっと電波が入り込んできてしまった」という設定が自分の中であるのです。でも仮にこの作品をプロジェクターで投影したらこの物語は生まれなかったものなので、機材や環境が持つ意味みたいなのを作品の中に取り込むということが展示の大きな特徴なんだなと今回初めて実感したというか。展示やってみて面白いなと思いました。 石田先生: 確かにね。今の話でよく分かりましたけども展示の「ものとしての映像」と上映会で暗闇の中での「ものを介さない映像」テレビモニターという選択は「ものとしての映像」であって、混線して他の映像がどんどんどんどん入ってきてしまうっていうのは、昔のテレビはアンテナのちょっとした角度によって揺れてしまったり、あるいはザッピングしてチャンネルをガチャガチャ回したりして要するに映像を自分で作っちゃうところがあって。 若林: 確かに、今だったらエフェクトかけて編集して作るノイズだったりを、鑑賞者が生み出しているっていうことですもんね。 石田先生: もっというと、ビデオアートの一番最初、ナムジュン・パイクって人が強い磁石でモニターの画面を揺らしたりしたのがメディアアートの始まりといわれているけど、山口さんのあの仕事にはブラウン管がもつ安定しない感じがすごくよくあって。安定しない断片としてのイメージの反復だもんね。短い短いフッテージの羅列によって、なにかそもそも映像ってなんだっけと感じさせる楽しさっていうか、それに見入っちゃう。なんかねあんなな感じで、まだまだ出来そうだね。 若林: そうですね。なんかまた仕組みの話になっちゃうんですけど、あのテレビに空チャンネルがあって、そこにケーブルで繋いだ映像を入れ込んでいるっていう仕組みなんですよ。普段だったら、チャンネル回しているときに通り過ぎてしまうような場所で実はひっそりと映像が繰り返し繰り返し流れている作品なんです。 石田先生: おもしろい。すごいひらめき。 ◆物語と運動、言葉、作者の痕跡 若林: 石田先生の作品というのはそれこそ対「もの」で、部屋自体に線の連なりを展開させたり光を追いかけていくような印象を持っています。いつかのタイミングでお聞きした記憶があるのですが、先生は作品を作る際、終着点を決めずに制作されていると。 私は、物語アニメーションを主に作っているせいもありますが、作品を作る際、ラストシーンから決めて制作に入ります。ゴールに向けてどうするかと考える。作画方法も原画を書いて間を中割りしていき埋めていく。これもゴールに向けて作画を重ねていくといった形で進めていっています。制作は基本楽しいですし、自分のいきたい方向にアニメーションを進めていけるのですが、描かなくてはいけない義務やノルマのようなものも感じてしまい、遠くに見えるゴールに思いを馳せては途方もない気持ちになるのです。 そこで個人的に気になるのが、アニメーションの終着点を定めずに制作するという感覚についてお聞きしたいのですが、いかがでしょうか。
石田先生:
確かに、僕は肩書きをアニメーション作家と言ってしまえばいいくらい絵を描いてく作業をずっとコマ撮りしていく作品が多いんだけど、肩書きは大体「画家/映像作家」にしているんですね。可能な限りアニメーションという言葉は使わないですね。いろんな映画祭で上映をしてきたけどアニメーションの映画祭はちょっと少なかったり。やはりそこで問題となってくるのは、多くの場合アニメっていうのは物語に収斂してしまうというか、始まりがあって終わりがある、あるいは終わりっていうのが物語的な構造の中に落ちていくような形式の作品が多くて、どうやらそういうアニメーションじゃないな。 どっちかっていうと純粋に絵を描いていく行為そのものの中での運動に興味があるわけで、だから画家であり映像作家だし、むしろドキュメンタリーなのかなと思う。特に抽象的な絵でもあるので、終わりも何もわからないずっと途上で自分自身一体どういう風になるのかなと思いながら描いている。それと、抽象的というのは、これはもう一つの言い方でいうと、なんだろう、言葉ではないものというか、言葉から逃げる行為ということがあるのかも。誰々を描きますっていったら、誰々になる訳だけども、何を描いているか分からない宙ぶらりんな状態にいくっていうのが自分の方法だから、なるべく言葉から離れる。物語からも離れ続ける。 以前バッハの「フーガの技法」を抽象アニメーションにしたけれど、これがオペラとかファンタジアの「田園」だったら具象になるよね。
若林: うんうん
石田先生: でもそういう仕事のなかで、自分が描いている環境そのものに左右されていく、もう一つメタな物語の構造があって、例えば部屋の中に入ってくる光と追いかけっこするような作品、その日その日の光の角度や天候とか自分の調子の良さ・悪さであったり、その日に描かれたものが変わっていく。そして昨日書いたものの続きから始まるのだから決して毎回真っ白から始まる訳でもなくて、そういうことが大きな一つの新しい時間をつくる仕事になっているのかも。 若林: 終わりがどうなるかわからず作っていくことや、途上のいろいろな環境の変化で絵が生まれていくというのは、ある意味ドキュメンタリーでもあるのですね。先生の作品から、先生ご自身の姿は写っておらずとも線や絵の軌跡から描いた人の存在であるとか、肉体の動きなどを頭の中でリンクして鑑賞していたのですが、今「絵を描くこと行為そのものの」だとお聞きして合点がいったというか。 石田先生: 萌さんの作品は、もちろん絵も動きもとても素敵だけどやはり物語なんです。物語っていう事にどうしっかり向きあっているかっていう、その姿勢なんです。あの、僕はそこがとても大切な、もちろん絵も素敵だし、声も音もとても魅力的だけども、物語に対する自分の姿勢というか、責任っていうのがとても伝わってきて、そこに感動する。あの短いフッテージの反復でもそうです。 アニメーションという方法で物語ることって、実は実写の映画なんかより、とても大きな覚悟が必要なのではないかと思うんですよね。例えば日常的にTVアニメのたくさんの物語があるわけじゃないですか。子供が初めて出会う物語ででもあるし、声優の声がなくてもキャラクターの動きで素敵な物語が生まれるでしょ。 石田先生: だから、みんなに何をどう語るかっていう姿勢とか、世界にどう問いかける・寄り添うのかっていうその姿勢がまず問われる。萌さんには萌さんにしかない優しさというか、登場するキャラクターに対しても、観客に対しても両方に対してもとても切実に優しい。今作っている新作にしてもそうだけど、学部の卒業制作「眠れぬ夜の流れ星」なんか全員が平等に優しく愛おしい存在として出てくるでしょ。だれにも優劣がなくそこがいいなって。それって、作品を見る人に対しても平等にちゃんと向き合おうっていうことなんだなって思います。 若林: 私は先生とは反対に作品の中から自分の痕跡を消そうとしているのかもしれません。自分の作品と言葉は切っても切り離せない関係で、自分が書く台詞をキャラクターが喋る時、「自分が無理やりその登場人物に言わせてないか」すごく不安になります。 私が決めたラストシーンに向かって駒のように進めてはいないかどうか。そういったセリフや展開に自分の痕跡や存在感が残ってしまうと作劇上良くないなと思っていて、出来るだけフラットに出来るだけ登場人物が思っていることを言葉にしようと決めているのですが、実現できているか… 石田先生: 素敵ですね。キャラクターに無理やり語らせてないかって、そんな風に登場人物と話しながら作ってるんですね。 僕はそういう風に考えると勝手に絵を描いているだけで、あまりそこまで責任を持ってやっている訳ではない。だけど、責任を持たないでやろうとしている理由の一つは、この「物語」というものはあまりに強いもので、なんでも物語になるでしょ。自分がここにいるのも、こうやって喋っているのもなんらかの与えられた役割であったり、なんらかの関係であったり、それぞれ全部が物語である。 だけど、こういうことって一歩間違えるとてつもなく危険で。何かを信じて何かを大切に思っていることは、ぎりぎりのところで暴力でもある。ある人にとって信じて生きている物語というものは、別の人からすると全然相容れないものになっちゃったりね。 映画っていうもの、何かお話を作るとかあるいは自分が作ったお話を見てもらうとか、そういうことって当たり前のように無限にあるけれど、ひとたびふと冷静になるとそんな簡単に新たな物語を作ることはできない。本当に自分が責任を持ってみんなにあたらしいお話を提示できるだろうかと思ったとき、そんなに簡単にはできない。そんな感じが自分の中に常にある。 だから萌さんの登場人物に対しての姿勢と、見てもらう人に向けてしっかり伝えようとしている切実な感じ、そこに感動する。 若林: ありがとうございます! 現在新作として修了制作「サカナ島胃袋三腸目」というアニメーション作品を作っています。大きな魚の胃袋に棲まうブタの父・魚の母・オタマジャクシの息子の三人家族の物語です。 今までの作品は「第三者視点の語り手」によるナレーションが全編に渡って付いていたんですが、今回ではそれは取りやめて、登場人物の間で交わされるセリフとモノローグで構成している作品です。「第三者視点の語り手」は願望・欲求などの行動原理が対立関係にある登場人物間での中立的な立場をとって進行できたり、複雑な物語を分かりやすくしたり、色々と機能があると思うのですが、その反面決めつけ過ぎてしまうような暴力性が生まれやすいのかなとも思っています。 「サカナ島胃袋三腸目」では三者の行動原理が対になっている訳ではなく、微妙な関係で成り立っているので、そこに俯瞰して中立然としたナレーションを持ってくると、キャラクターたちの気持ちの変化を上手く描くことが出来なかったのです。結局、語り手=私自身になってしまうので、自分の痕跡をより消すようにして、物語の進行をキャラクターたちに委ねてみようという思いで制作しています。 石田先生: 本当に次の作品楽しみです!!!そしてぜひぜひ、物語をなにより大切にしつつ、今回の展示のように、絵が動いていることの楽しい展示も続けてください。あのモニターのやつは他にも4つくらいあっても良いかもしれないし。 若林: そうなんですよ、なんか今年10月に個展を控えていまして、それに向けてあのモニター買い足そう!と思ってネット探し回ってます。笑 それとはまた別に今後、今回みたいなグループ展をまた開催したいなと思っています。今回は世界観とかに着目しましたけれども、 他の要素「物語」や「音」とかをテーマにしてアニメーションの展示をやってみたいです。 いつになるか不透明ですけれどもいつかやりたいなと。 =========================================== 以上、石田尚志さんとの対談でした。ありがとうございました! 私自身、展示はなかなか足を踏み入れてこなかった領域なのですが、今回の対談を通じて少し理解が進んだような気がします。 上映作品を作っている時は内側へ内側への入り込んで制作している一方、展示する機会は外側から俯瞰して考えることのできる体験だなと感じました。アニメーション自体にフォーカスする、映像作品の構成要素に着目できる手段としてまた別の形で、別のテーマで挑戦できたら良いな…と思います。 Comments are closed.
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Author「ここではないどこか」の誰か ArchivesCategories |