こんにちは、参加作家のキヤ です。 ゲストトーク第5弾(最終)として、 アートユニット・Paul Hommage and Yumi Takeuchi (ポール・オマージュ&竹内佑未)さんとの往復書簡を公開します! Paul Hommage and Yumi Takeuchi (ポール・オマージュ&竹内佑未)プロフィール : Paul Hommage (1988*) 2013 Master degree of Arts in University of Arts and Design of Nancy (ENSAD) Nancy, France 竹内佑未(1991*) 2020 金沢美術工芸大学大学院博士後期課程美術研究領域油画分野修了 2013年から共同で制作を開始。現在はフランスに滞在しながら、アニメーション、版画、ドローイング、映像インスタレーションを制作中。 instagram : @ytph.fr (https://www.instagram.com/ytph.fr/) homepage : www.ytph.fr キヤ (2021/3/7/Sun)ポールさん、竹内さん、お久しぶりです! 金沢美術工芸大学での先輩にあたるお二人ですが、直接やり取りをするのは何年ぶりでしょうか。 ポールさんと竹内さんは共同制作によってアニメーションやビデオ作品、ドローイングなどを国内外で精力的に発表し続けているアートユニットです。 現在はフランス在住とのことですが、今回は敬愛するお二人と再び交流する機会を得られてとっても嬉しいです。 (在学中、お二人の金沢のご自宅で真夜中に黒沢清監督の「回路」を観て震え上がった思い出が懐かしいです。) 今回、私たちのグループ展「ここではないどこか」の記録映像と、同時に上映している過去作品『くじらの湯』『かえりみち』をご覧いただきました。 私が新作として展示しているのは、プロジェクター投影によるループアニメーション(題して『天ゆ』)と、そのイメージ過程に生まれたイラストレーションです。 アニメーションの方は、砂漠に立つ銭湯の煙突が女の子を乗せて空へと伸びていき、お湯を吐き出して宇宙に銭湯を生み出すという内容になっています。 『天ゆ』冒頭シーン グループ展のテーマにもある通り、2020年は人々の直接的な交流が難しくなった年です。 そんな中で感じたのは、それまで賑わっていた、人々の集う場所が機能しなくなってしまうことに対する寂しさでした。 はじめに寂れてしまった煙突を描いてみたのですが、その錆や煙がふとロケットのようにも見えて、宇宙(ここではないどこか)で形を変えてまた機能していく様子を表現してみました。 月が湯に浸かっていたり、星雲のようなものが湯気っぽく見えたり、こんなお風呂があったらいいな・・・という感じで作っていました。 コロナ状況による閉塞的な空間でのストレスから、とにかく広大な場所で癒されたい気持ちがものすごく反映されていると思います。 このアイディアに行き着く前には、イラスト展示の右側のイメージボードのように、銭湯と居酒屋が合体したような楽園的な空間をアニメーションにする構想をしていました。 銭湯と居酒屋というと、剥き出しの裸体と心が集う場所ですが、過去作品にもみられるように大阪の下町に生まれ育った私の原風景的なものが入り込んでいる気がします。 ポールさん、竹内さんのお二人は近年の状況の中、活動していく上で何か変わったことはありましたか? 銭湯と居酒屋が合体したような楽園をイメージしたもの また、今回は私にとってあまり経験のない、アニメーションの空間展示という発表形式になりました。 上映として流れていくものではなくて、展示としてそこにあり続ける映像作品、と考えるとどういう形に落とし込むべきか、結構難しかったなと思います。 私は油画出身なので作品を空間に展示することは自然な形式ですし、その延長でアニメーションを始めたはずです。 しかし普段アニメーションを作る際には起承転結や始まりと終わりというような流れを無意識的にイメージして、いつの間にか内容が膨れ上がっていくことで、最終的にスクリーン上映として発表することに馴染んでいったように思います。 でも、正直なところどんな形式で発表するのが自分にとってベストなのか、まだ確信はないです。 ポールさん・竹内さんのお二人はドローイングなどと共に、映像作品も空間に展示する形式をよくとられていると思うのですが、映像作品をシアターのスクリーンで上映しようとか、映画祭に出品しようと思うことはありますか? Paul Hommage and Yumi Takeuchi (2021/3/14/Sun)竹内 : おひさしぶりです。またキヤさんとやりとり出来て、とてもとても嬉しいです。 大阪で一緒に遊んだのが、もう五年くらい前になるでしょうか。最近あるラジオで、民族学博物館に物に憑く先住民のおばけがでるという話を聞きました。またいつか遊びに行きたいです。 新作「天ゆ」と、アニメーション「くじらの湯」と「かえりみち」を鑑賞させていただきました。いずれの作品にも、キヤさんが生まれ育った大阪の下町の確かな空気が漂い、過去二作品では、それに音や匂いのような要素が生々しく加わって、一つの世界として外に向かって確立しているのが感動的でした。アニメーションを観ながら、私がキヤさんと一緒に歩いた五年前の大阪のあの場所や路地の記憶もふ~っと浮かんで重なって、不思議な記憶の追体験をしました。 左:『くじらの湯』 右:『かえりみち』 私たちは昨年の七月から、フランスで生活をしています。 最近はスタジオで作業が出来るようになったので、毎日を窮屈には感じていません。ただ、居酒屋や、銭湯、外に漏れた人の生活空間などの、日本の湿った空気感のようなものは、コロナで外出が制限される以前から、とても恋しく思っているものの一つです。 作品制作で変わったことといえば、これまで大体三ヶ月間を一つの区切りにしていたのを、今は一年以上かけてじっくり進めようとしていることでしょうか。一つのプロジェクトのもと、短編アニメーションの制作と、映像インスタレーションの二つを完成させたいと考えています。 2018年頃からぼんやりと、物語を作りたいと思っていました。アニメーションに長期間向き合うことを決めたきっかけとしては、実験的に共同制作を行うなかで、アニメーションが私たちの個々の違いを全てを迎え入れる制作領域であるということを実感したのが、大きかったかもしれません。 「簡単にすぐに物が手に入り、映像も、イメージも、一日に大量に見ることができる現代が、例えばいつか機能しなくなり、じゃがいもが簡単に買えなくなってしまったら、私たちは土を耕し、時間をかけて世話をして、食物を得なければならなくなる。その過程に膨大な労力と、時間と、そして多くの失敗を私たちは費やさなければならないが、その経験や、偶然生まれるもののなかに美しさが宿っている。時間がかかり、いつも疲れ果てるアニメーションの作業も、それとよく似ている」 今日、ポールがこんなことを言いました。 畑のなかに共生する、繁殖力の強い植物、弱い植物、土の中の生き物やミネラルが、それぞれのために生きながらも一緒になって場所を作っている。あーでもないこーでもないと意見やイメージをやりとりしながら、時間をかけて作るアニメーションの制作領域も、確かに畑と似ているのかもな、と思いました。 キヤさんにとって、アニメーションはどういう場所なのでしょうか。今は会社でお仕事をしながら、制作をしていると聞きましたが、個人の制作と、誰かと一緒にプロジェクトを進行すること、その行き来をどう感じているのかも、聞いてみたいです。 ポール : キヤさんのアニメーション作品で面白いと感じたのは、カメラモーションと、アニメーションの全体的な物語の中にある短いループ運動です。絵具の質感と、抽象的な形によって作られる異質な空間の数々も好きな要素の一つです。また、これは私の個人的な見解ですが、ダイナミックなカメラの動きというのは、日本人のアニメーション作家の作品に共通して見られる特有のもののようにも感じています。 空間展示、インスタレーションを見る際の私の視点は時間と共に変化していますが、現在は、ヘテロトピア的空間へ導いてくれるような展示への憧れがあります。 今回のグループ展の展示空間は、私にとっては綺麗すぎるように感じられました。 どのような方法で作品を見せるのが自分にとってベストなのか確信がない、というキヤさんの言葉がありましたが、それは、作品をベストな方法で存在させるために、どのように展示すれば良いか、に置き換えられるのではないかと思いました。 (今回のグループ展示に関して言えば、作品が他の作家の作品とどうコラボレーションするかなど。) もちろん、それぞれの展示によって、ルールやコードは異なりますが、作品が求める空間を作り上げることが私は大切だと考えています。 私が映像作品を作り始めたとき、映像 / アニメーションとは何か、というのを考えました。それは、プロジェクションの光なのか、時間の幻想なのか、それとも動きで書くことなのか…。もちろん正しい答えはありませんが、その時の自分や作品に合わせ、その都度自分の答えを明らかにしておくことは重要だと思います。 キヤさんの作品では、様々な時間が交差しています。 例えば作品「くじらの湯」では、ループや紋中紋の時空間もあると同時に、始まりと終わりの時間軸もあります。 始まりと終わり、タイトル、キャラクター、あるいはスクリーンの長方形…などの要素を含む時間軸を作品に選択した場合、作品は映画のコードに属します。そこでは同時に、どのように展示されるかについても、おおよそ選択された状態になっています。 しかし、この要素の構造を一つでも壊した場合、作品は同じにはなりません。 例えば画家(キヤさんも油画を描いていましたね)は、絵画のフレームに対し疑問を投げかけます。ルネサンス期以降あるいはそれ以前から、画家は絵画の境界はどこにあるのか、建築的な空間と絵画をどのように融合させるか、という問いを持ち続けています。映像作家としては、そこに時間、光、そして新しいメディアに特有の概念などを加え、疑問を投げかける必要があるでしょう。 キヤさんは、今、どんな展示あるいは作品を見たいと思いますか? キヤ (2021/3/21/Sun)お返事をありがとうございます。 竹内さんに私の大阪の地元を案内したのはとても良い思い出で、あの場所のムードを作品から思い出すと言っていただけて嬉しい限りです。過去2作品では両親について向き合うことで自分の存在を確認しようとしていて、同時に心に強く残っている地元の風景を描きたいと思っていました。 実は「くじらの湯」の舞台となっている銭湯にも、大阪に滞在された時に一緒に行っているんですよね。(泊まったアパート隣の銭湯です。)当時は作品化するとは思ってもみませんでしたが、不思議な巡り合わせだなぁと思います。 民族博物館に先住民のおばけが出るというのは初耳ですが、 あの時たくさん撮った写真に何か写り込んでいないでしょうか(笑) また行きたいですね。 「くじらの湯」の舞台、キヤ の地元の銭湯 お二人の近況について、大変な状況を経ても変わらずに制作活動を続けられている様子と、 良い意味で作品に対する新しい試みという変化があったということ、お聞きできてよかったです。 これまで共同制作の作品を鑑賞させていただきながら、閃きやアイディアを新鮮なうちに画面に落とし込んで制作されている感じがしました。ですが今回、一年以上かけてアニメーションで物語を意識した作品を制作されるとのことで、お二人の体験や考えを融合または共存させながら、一体どういう物語に結実するのか、それが私たちにどう響いてくるのか、今からとても興味深いです。 まとまった尺のアニメーションを完成させるには途方もない時間を積み上げなくてはなりませんが、一人で作っていても、その長い創作期間の間に様々な場所や人から影響を受けて最終形態は如何様にも変わっていくなぁと思います。 また、プロダクションにおける大人数での制作では監督という絶対的な存在がいる中でも、部分を担当する個々のクリエイターから滲み出るスタイルや考え方、偶然の閃きによって作品が形作られていき、最終画面の中で一体となっていて、それが感動的です。確かに植物を育てる畑の中に共生する生き物たちの様子に、イメージが重なります。 私にとって自己表現と商業的なチームプロジェクトは文字通り畑違いではあるのですが、今はどちらの可能性にも興味があって、場違いかもしれない土を双方に運びながら、何か新しくて面白い実りがないかなぁと期待している状態です。 (とはいえ私は組織の中で繁殖力の弱い微力な要素なので、大それた事は言えませんが・・・・) ところで、『L’arbre dans la ville』や『Le tronc et les branches』は私が特に好きなアニメーション作品の一つですが、 植物と人の営みというテーマはお二人にとっての関心事の一つなのでしょうか。 『L’arbre dans la ville(木と都市)』 http://www.ytph.fr/oeuvre/larbre-dans-la-ville 『Le tronc et les branches (幹と枝)』 http://www.ytph.fr/oeuvre/le-tronc-et-les-branches 自分が今観たい作品・展示は・・・なんでしょう。 広い意味になりますが、個人のもつオリジナリティがアニメーションによって新しい言語となっているもの、 そして映画祭などの場で多様な観客たちが集中し一体となってその作品を鑑賞していると感じられる瞬間が、自分にとってとても価値があります。 発表形態として極めてベストな道は初めから自分の中にぼんやりあるものの、油画を発表していた頃と違って失ったものもあると感じています。長時間観客をスクリーンの前に縛り付ける以上、ある程度の分かりやすさを提供する工夫をしないと伝わらなかったり苦痛を強いることになるため、湧き出てくるものを純粋に形作るだけでは、そういった場で注目してもらえないような気がして、そこが一番自分を迷わせている部分かもしれません。 今回の展示では一つのテーマをもとにそれぞれが新作を制作し、どのような空間を作るのかは搬入現場で初めて分かったという流れでした。 普段上映や放送や配信が主な発表の場となっているアニメーション作家の私たちとしてもあまり機会の無い実験的な試みだったと思いますが、誰かの世界の時間と同時並行に自分の作品の時間が共存している空間は新鮮でしたし、上映ほど「分かりやすさ」を取り入れて作らねばという意識もなく、この形態だからこそ発展させていけるような、可能性を感じる良い機会になったと思います。 Paul Hommage and Yumi Takeuchi (2021/3/26/Fri)ポール・竹内: お返事ありがとうございます。 自己表現と商業的なチームプロジェクトは文字通り畑違いではあるのですが、今の私はどちらの可能性にも興味があって、 場違いかもしれない土を双方に運びながら、何か新しくて面白い実りがないかなぁと期待している状態です。 この一文を読んで、次にどんな変種がキヤさんの作品として誕生するのか、とても楽しみになりました。 キヤさんの言うように、アニメーションの、一と多が共存するような面白さは、個人もプロダクション製作にも共通してあるのかもしれませんね。そして、私たち自身、アニメーションの構造そのものに面白さを感じているのだなと改めて思いました。10分、15分という時間を1年以上かけて作ったり、2時間を何百人が一緒になって数年かけて作るって、よく考えると不思議でおかしいことで、でもそこから変てこな時間の世界が生まれないはずがない。そんなアニメーションに動かされるように制作するのって、他の制作とは別の心地よさもある気がします。 2017年に制作した『L’arbre dans la ville (木と都市)』、『Le tronc et les branches (幹と枝)』は、フランスのナンシー市から依頼を受け制作した3点のアニメーションのうち2点です。 「根」、「幹と枝」、「木と都市」という、3つの植物に関連するテーマが依頼を受けた時点であったせいか、制作当時は観念的に「植物」を捉えていた気がします。 ただ、『L’arbre dans la ville(木と都市)』に関して言えば、この制作をきっかけに「都市」の構造に二人で興味を持ちました。これまで二人で絵を描くときに感じていた窮屈さが、この台湾の風景を描いているときには不思議と感じなかった。 何でかな、と後から考えたら、それは別々の絵が「都市」の集合体のイメージのなかでは共存することができたからでした。そこから「Ubiquity」という作品も制作したりしました。 『Ubiquity』 当時の私たちは、植物や動物といったものたちを作品中の対象として、自分たち人間との間に一線を置いた地点から見ていた気がします。今はその間に観測地点をおいて、しまいにはできるだけ近づいて、一緒になれないかな、と想像していて、それは今作ろうとしている作品で観せられたらいいなと思っています。 ちなみに、去年制作した『Rebound』は、現在制作中のアニメーションのプロローグ的位置にあるアニメーションです。 『Rebound』 http://ytph.fr/oeuvre/rebound-vosten キヤさんが観たい作品、展示をお聞きしましたが、それに対する答えに私たちもうんうんと頷きました。 映画館での上映経験がない私たちにとっては、他の人たちを作品の時間を一緒にするというのは未知の経験で、とても興味があります。 展覧会は、作者の見ることに誘い込む工夫や、観客の見る努力もある程度要求されて、緊張感のある空間に感じることが多くありますが、映画館は、大きなスクリーンに映る世界に人はリラックスしながら(苦痛を感じながらも?)入り込めるというか、一人一人が好きなように過ごせるのが良いなと思います。見るための空間が準備されている映画館と、空間そのものを作る必要がある展覧会は、全く別の見方が発生する場所として面白い。今後は私たちもこの二つの場所を行き来するような制作をしたいと考えています。言語や業界など諸々コードも違うし、絶対に大変だろうけれど。。またキヤさんにはいろいろと教えて欲しいです。 最後に、キヤさんが関心を持っていることは何ですか?という質問をさせていただきたいです。 今のキヤさんの頭のなかにどんなものが漂っているのか、制作に関係あるなしに関わらず、ぼんやりとでも良いので、聞いてみたいなと思いました。昨日のものでも、今日のものでも、なんでも。 キヤ (2021/3/27/Sat)二通目のお返事、ありがとうございます! 都市のイメージが共同制作の可能性の幅を広げたというお話、とても面白いですね。 『L’arbre dans la ville(木と都市)』では竹内さんとポールさんの絵の境界ははっきりと見えずに溶け合って、その場所の時空間として生々しく成立しているように感じられますが、 『Ubiquity』ではタイトルに「ユビキタス」とあるように、一つの場所であるけれど複数の時間と視点が混在しているような作品ですね。境界線が複数存在しているパッチワークのような形態も、そこに住まう人々の視点によって無限にイメージが増殖していく都市の在り方のようで、共同制作の試みとしても興味深いです。 また、お二人の作品の中で「道具を扱う手仕事」を描いた作品が多く見られるのも気になっていました。 どことなく、道具と共に進化してきた人類の原初を想起させるような雰囲気に惹きつけられます。 「2本の手」という要素が繰り返し登場する『Rebound』では宇宙誕生のようなスケールを感じましたが、より根源的な世界の中で、人間とそれぞれの生命がどのように描かれていくのか、興味津々です。 The Newton case http://www.ytph.fr/oeuvre/newton-case そして次回の作品が、お二人にとってこれまでに経験のない「映画館での上映」になるのだとしたら、また別の客層や私たちの発表の場とも交差する可能性もありそうで、気が早いですがワクワクしています。 この対談の目的としてもそうですが、お二人の活動をアニメーション業界の人々に知ってほしいという思いが強くありまして、そんなきっかけに繋がってほしいと思います。 作品の完成を楽しみに、これからも応援しております。 最後に、今私の中にぼんやり漂っているのは、「他者」という存在に関してです。 (いきなり冷たい響きをもつ話題に突入してしまいましたが。。。) 東京で数えきれない人々と毎日すれ違う中、コロナで「内と外」という意識が強調され、孤独感も増大し、個人的には大きな別れを経験するなど色んな事情が起因していますが、人それぞれの違いや、他者とどう関わって生きていくかをシビアに考えることが今までよりも増えました。もはや人生のテーマで、直接制作に関わるかはわかりません。 しかしこれまで、自分が感じてきた精神的な困難はその時々の作品の中に形を変えて現れていて、そこで新たな視点を得て前に進めることが過去に何回かあったので、今回もそんな感じで乗り越えられたらな、と思っています。 別の視点だと、今までの作品では極力、ストーリーらしいものを入れず、作中に登場するものたちの感情を抑えていました。人間が出てこようが「モノ」としての扱いに近く、現象を客観的に描くことを意識していました。今でもそういう作品を観たり作ったりするのが好きです。 ただアニメーターになってから、「動きの機微によって描くものに芝居をさせる」という当たり前の姿勢に驚いて、そこまで登場人物(あるいはモノ)に近づいて制作したことなかったなぁとふと思ったんですよね。 それは「他者」を真摯に描くことにも置き換えられるかもしれません。 そういった面でも、自分の中に生まれた新しい興味を育てて、何か次のもので挑戦できたらいいなと思ってます。 ポールさん、竹内さん、ここまでの往復書簡をどうもありがとうございました! 無限に続けたい気持ちですがここで展示の会期がギリギリになってしまいましたので、区切らせていただきます! 久しぶりにやりとりが出来て、創作意欲も高まり、とっても楽しかったです。 次にお会いしたとき、また色々お話ししましょう~!! 以上、Paul Hommage and Yumi Takeuchi さんとの往復書簡でした。 ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます! 普段私は個人でもプロダクションでも、アニメーションの世界で「スクリーン」を意識してきた分、それは表現のための一つの手法に過ぎないということを忘れがちでした。 今回の展示の経験と、発表形態を様々に横断する竹内さん・ポールさんの活動を垣間見たことで、自分の中のアニメーションの捉え方も広がったように思います。 展示にご協力下さったアキバタマビ21のスタッフ様、そして参加作家の皆様、素晴らしい機会をありがとうございました! キヤ 2021/3/28 こんにちは、参加作家のしばたたかひろです!! 本日はゲストトーク第4弾ということで、アニメーターやイラストレーターなど様々な分野で活躍している伊豆見香苗さんをお招きして、作品作りにおけるこだわりについてお話しできればと思います!! 伊豆見 香苗 イラストレーター、アニメーター、GIF作家など、様々な分野で活躍している超凄い人。フットワークがめちゃくちゃ軽く、その上なんでもやってこなす。Twitter、インスタ、YouTube、LINEスタンプなんでもこなす。凄い。「冷蔵庫の余り物で作ったよ〜。」と言って作ってくれる手料理がめちゃくちゃ美味い。 Twitter:https://twitter.com/izmizum HP:https://www.izumikanae.com しばた: 今日は、とにかくそれぞれの作品に対するこだわりについて話せたら良いなと思います。ひとまず作品を見た感想を聞けたら嬉しいです! 伊豆見: 作品の不安定な雰囲気が相変わらずしばたくんらしいな、というのが第一印象かな。一見綺麗で収まりがいいんだけど、床や家のパースが崩れてたり、その微妙な狂いがより見る側を不安 にさせるというか。 しばた: 確かに。基本的に僕の作品は過去の経験に基づいた景色や空間の中から、特に魅力的な部分をピックアップしてアニメーションに落とし込んでいるんだけど、過去の作品を見返したときにちょっと忠実に作りすぎてるかなと・・・。忠実っていうのはイメージを100%でアウトプットするってこともそうだし、あとデッサン力にコンプレックスがある故の「正確なパースで描きたい」っていう思いにも忠実で。でもそれってアニメーションを作る上ではデメリットにもなりうるから、今回は逆に自由なパースで描いてみようっていう試みはあったかも。それが結果的に不安さを増幅させたかな? 逆に伊豆見さんはそういう空間作りに於いてこだわりってある? 最近だと YOASOBI の「ハルカ」の MV を手掛けてたけど、このMVもそうだし過去の作品を見ても、一定して生活感が凄いなって思うんだよね。 YOASOBI「ハルカ」MV 伊豆見: アニメーションって実写じゃないじゃん。基本的に現実世界にないもので構成されてるというか。だけどそこに空間的な拡がりや、ないはずのものを「ここにある」って思わせたいんだよね。生きてる感とか。そういう取り組みの一つとしての生活感はあるかも。けど「ここにある」 感を強めるための方法を誤ると「それって実写で良くない?」ってなるから、そのリアルとフェイクの狭間のどこを切り取るかで探り探り制作してる感じ。 しばた: キャラクターが静止してる時にあえて 2、3枚のコマで輪郭線をプルプルさせるのもそうだよね。生きてる感、そこにいる感、空気感に繋げたい。 伊豆見: だって人って止まってる瞬間ないんだもん。常に揺れてる。 しばた: わかる、静止してるアニメーションだとしても、やっぱり連続してる動画の一部であって欲しいんだよね。時間軸を持ってて欲しい。。。 写真で思い出したけど、そういえば僕は元々実写をやってて最終的にアニメーションに落ち着いたけど、伊豆見さんも元は写真だよね? 伊豆見: そうだね、2人とも実写からアニメーションに転身してる。 そう言われてみれば確かにしばたくんの作品って映画的だよね。 しばた: 元々は実写の映画監督になることが夢だったし。 しばたが学部時代に撮った実写たち。女子高生ばっか撮ってた。 伊豆見: 元々実写やってたから、空気感にこだわりあるのかも。 しばた: 被写体とカメラの間にある空気の層を、平面アニメーションでも感じられるようにしたいよね。。。 伊豆見: 奥行きね。普段イラストを描くときは背景を白一色にしたりするんだけど、アニメーションを作るときは被写体となる主人公のさらに奥に空間が広がってて欲しい。主人公の奥にも人が居たり。 しばた: めっちゃわかる。。。空間的な拡がりや空気の層にこだわりだしたら、目の前で繰り広げられる主人公たちの物語だけじゃなくて、その奥で繰り広げられる無関係の人々の物語まで描きたくなってくる。。。主人公の奥でただ買い物してるような人を描くだけでも、そこには買い物する人の物語が追加されて、結果的に主人公と買い物する人の間に新たに空気の層ができるというか。でもそれって既に色んなアニメで取り入れられてることだけど、アニメーション描く人ならわかると思うけど、かなり骨の折れる作業なんだよね。。。 あとあれ、昔放送してたソフトバンクのCMで、ピコ太郎とジャスティン・ビーバーがコラぼしたCMがあったんだけど、廊下を歩くジャスティンの背後でずっとピコ太郎が踊ってるの。ピコ太郎からカメラが離れてピンボケしてもずっと。あれ観た時妙に感動しちゃったんだよね笑 伊豆見: あと私、しばたくんの作品の一瞬で終わるカット好きなんだよね。もどかしい気持ちになる。。。 しばた: 確かに、不意にカットが断ち切れることで感じられる空気感もあるかもね。余韻というか。その後続くはずだった時間の中に観客が取り残されるんだよね。現実世界で。 今の話は瞬間的な話だったけど、逆に長回しで得られる空気感も魅力的。最近A24の「A GHOST STORY」って映画を見たんだけど、主人公の女性がキッチンでひたすらパイを食べる様子を10分くらい長回ししてるカットがあって、映画はこういう時間の使い方ができるからいいなーって羨ましくなっちゃった。 伊豆見さんはGIFの作品も数多く手がけてるけど、GIFってループ故に、永遠に終わらない長回しとも言えるよね。GIFにこだわる理由の一つに長回しの魅力もあったりするの? 伊豆見: どうだろう、でも最近はGIFじゃなくてMVのお仕事が多いから、ゆったりっていうよりはテンポ良くを意識してるかも。長回しの良さはわかるんだけど、場合によっては観客が飽きちゃう恐れもあって。。。 GIFの話が出たから思い出したんだけど、そういえば最近はストーリー性のある作品が作ってみたいっていう気持ちがあって、GIFもそうだしキャラクターのイラストもそうだけど、私の作品ってストーリーがないんだよね。ストーリーがないからこそ、観客に委ねる部分が発生するというか、他者の解釈が生まれてそれはいいことなんだけど。 しばた: 大学の卒業制作はストーリーがあったよね? 伊豆見: 確かにストーリーっぽいものは一応あったけど、直接的じゃなかったり結局解釈を観客に委ねる部分が多かったから、もう少しわかりやすく、具体的に作ってみたいな。最近練習としてストーリ性のあるショートアニメを作ったりしてるんだけど、ストーリー性を保ちつつ、さらにキャラクター性にも厚みをつけて、作品全体のボリュームを上げたいかな。主人公のキャラクターの家族構成や背景まで設定するような。 しばた: ストーリーね。 伊豆見: STORY。。。 しばた: 僕も伊豆見さんと同じく、作る作品がことごとく抽象的で、解釈が難しいって言われるんだよね。一回くらい観客に的確に意図が伝わる作品を作ってみたい。。。 伊豆見: その抽象的か直接的かっていうのは、作品がアートなのか商業なのかを隔てる要素の一つでもあるよね。最近村上隆のクラブハウス聴いてるんだけど、「アートは見てる人の気分によって解釈が違って良い」って話をするの。例えば見る人が失恋して落ち込んでる状態で作品を見れば悲しい解釈をするし、楽しければ楽しい解釈をするし。それで良いのがアートだって。けど一方で商業になると、見る人全員に同じ感情を抱かせるのが一つポイントになってくる。しばたくんは商業としての一面もあるけど、やっぱり作家性の占める割合が多いように思うから、解釈が難しいって言われたってそれで良いと思うよ。アートやってるんだもん。 しばた: ありがとう、でもやっぱり一度は明快な作品も作って見たいね〜。 そういえば前に大学院の授業で、感動とか恐怖とか笑いとか色んな人の感情がある中で、一番笑いを取るのが難しいって聞いたことがある。だから一度は笑いのあるアニメーション作品に挑戦してみたい気持ちがあるんだよね。けど笑いが取れず滑った時の恐怖もある。 一時期ギャグ系の漫画を Twitterに投稿してた時があったんだけど、見事に滑ったね。 Twitterで大コケした漫画。虹の話が個人的には好きだった。 伊豆見: お笑いに対してみんな目が肥えてるからね、求めるもののレベルが高くなってるよね笑 しばた: あと僕が変にアーティスト気取りだから、ギャグ漫画にすらアート的な要素を孕んじゃって(※1)、「一体これは何・・・?」ってなっちゃったり笑 ※1 改めて見返すとアート的要素皆無なので撤回。 ちょっと話が戻るんだけど、いつも自主制作するってなってアイデア出しし始めると、よくわからないけどとにかく感動系を作りたいって思いが強かったんだよね。それなのに最近急にホラー系を作ってみたいなって思うようになったのよ。笑いはゴールに残しておくとして。観客の色んな感情を揺すぶってみたい。 伊豆見: 確かに、しばたくんならホラーいけそう。作風とも合ってる。 私も最近シュールホラーみたいなものを目指してて、例えば普段よくエビのイラストを描いてるんだけど、そのえびに海老天を持たせるみたいな。 海老天を持つエビ。 しばた: それはホラーだわ。 伊豆見: グロかったり幽霊が出てくるとか、そういうホラーとは方向性の違うホラー。あとあれだね、人を傷つけないホラーがいいな。 しばた: 「人を傷つけない」ね、めちゃくちゃわかる、なんだろう最近凄い意識する。商業に興味を持ち始めたり、作家活動に SNSを活用するようになってから「自分の作品が誰かを傷つけないかどうか」はかなり気にするようになったな。 前に一回 Twitterの投稿文を指摘されたことがあって、「〇〇するぞ!」っていう文体での投稿に対して「言葉遣いが悪いからやめてください。」って。何が人を傷つけてるのかわからないよ。 伊豆見: ハム太郎が「〇〇なのだ!」っていうのも、もしかしてNG? しばた: 上から目線な感じがするからNGかもよ。わがままな感じがするって言われたらどうしよ。傲慢とか。。。気にし出したらキリがないよね笑 どうしたら良いんだろ。もちろん中には極端な意見もあるけど、やっぱり人の意見って大切だし、かといって否定的なものを全て作品に反映させようとすると、時には作品がつまらなくなったりする。 伊豆見: 人の意見を重点にはしたくないかもね。あくまで自分の考えが主体で、時に人の意見にも耳を傾けるというか。 しばた: 当初はお互いの作品に対するこだわりを出し合って、その違いについて考えられたら良いなと思ってたけど、思いのほか共通点が多くてびっくり笑 そしたら我々は直近の目標として、自分の作りたいものを、時々人の意見も挟みつつ、物語が観 客に的確に伝わるような作品を作ってみる(とりあえずホラーに挑戦してみて、いつか笑いも取れたらハッピー)って感じでまとめましょう!!!!!!!!本日はありがとうございました!!!!!!! 伊豆見: ありがとうございました! 以上、しばたたかひろと伊豆見香苗のトークでした。 ガストで食事しながら対談したせいか、対談というか雑談といった具合に仕上がってしまいました。僕ももう大学院を卒業して3年目。新作を作らなければというプレッシャーに押しつぶされそうな日々だったので、ぼんやりと作品の糸口が見えてとても良かったです。お付き合い頂きありがとうございました〜! しばたたかひろ こんにちは。 参加作家のりょこと申します。 ゲストトークの第3弾として、脚本家・演出家の池田 亮さんをお招きして対談を行いました。 【ゲストプロフィール】 池田 亮 / IKEDA RYO 脚本家・演出家 1992年8月31日 埼玉県春日部市生まれ 東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻 卒業 元から作ることが好きで、暴力やいじめなどの体験を人に話したら 笑い話になったことをきっかけに演劇を始める。 脚本、作・演出から俳優、彫刻から模型、小道具から大道具、映像まで広範囲にやる。 舞台・映像・美術を作る団体「ゆうめい」主宰。 池田 亮ツイッター▶︎https://twitter.com/yyyry_ikeda ゆうめいHP▶︎https://www.yu-mei.com/ 池田さんとは多摩美術大学で同じ演劇部だったことをきっかけに、持ちつ持たれつ10年近く一緒に作品制作を行っています。 今回の展示についても、設営・建て込みや、私の水の回転装置など、多大に製作に協力していただきました! このような公でお話しすることは初めてなのですが、 今回の展示と、最新作・過去作品についてオーディオコメンタリー風にお届けします。 要所で動画や画像などもありますが、ラジオ感覚でも聞いていただけたらと思います。 ①展示作品について ②最新監督作品「CIRCUS」について
③上映作品「ちゅうちゅう」について
以上、池田 亮さんとの対談でした。ありがとうございました!!
今回の展示作品と、自分の中で現時点ターニングポイントになった2作品についてたっぷりとお話しさせていただきました。 話をする中で、物質や空間の認知、物語など、池田さんの新しい視点を聞かせていただき、 自分でも言語化できなかった感覚の解像度を上げてもらったような発見がありました。 今回の展示は、外に向けての作品というよりどちらかというと 自分がなぜか魅力に感じていることを形にしてみる個人的な実験でもあったので 対談を通して言葉でも作品を掘り下げられて、やっと作品を全て作りきったような気持ちになりました。 展示自体、私は初めてだったのですが、 空間・時間・映像全て使えるところがとてもおもしろく、早くも次にチェレンジしたい気持ちでいっぱいです。 「ここではないどこか」の会期は残りわずかですが、 またみなさまのお目にかかれる日を心より楽しみにしています! りょこ
こんにちは。若林です。参加作家とゲストとの対談・第二弾ということで、
画家・映像作家の石田尚志さんに展覧会をご覧頂きトークを致しました。 ★ゲストプロフィール(敬称略) 石田尚志 1972年東京生まれの画家/映像作家。多摩美術大学教授。 線を一コマずつ描いては撮影するドローイング・アニメーションという手法を用いて、 空間のなかに増殖する線や移動する点といった運動性を介入させ、空間の質をさまざまに変容させるインスタレーションを 発表している。 https://www.takaishiigallery.com/jp/archives/4327/ 若林は多摩美術大学映像演劇学科(※1)に在籍していた際、石田先生のゼミに所属しておりました。 卒業してから随分と経ちますが当時のゼミに参加するような気持ちで臨みたいと思います! ※1:造形表現学部(夜間)映像演劇学科、現在は募集停止。 =========================================== 若林: まず展示の感想みたいなのをお聞きできたらと思います。 石田先生: いやあの、えっとね、若林さんのモニターは、あれは裏はどういう風になってるんですか?あれブラウン管? 若林: はい、ブラウン管です。 石田先生: 本当のブラウン管? 若林: 本当のブラウン管です。ヤフオクで82年?製かな、買ってきて。もともとアニメーション自体はデジタルで作画していて、フルHDの映像なんですがそれを古いモニターに投影して見たいと思いまして。この映像をこのモニタで投影するにはいくつも変換が必要でいくつものケーブルが繋がってるんです。 まず映像をUSBに入れてメディアプレイヤーに繋ぎ、そこからHDMI伸ばして、AV端子に変換して、更にAVをUHF端子に変えなきゃいけないのでRFコンバーターっていうのをゲットして繋ぎました。 石田先生: 画角は違うの? 若林: いや意外にも16:9で画角は一緒でした。ですが、端子を挿す穴が現存しているものだと直では挿せなかったんです。 石田先生: へえ、すごい。 若林: テレビもHDMIもAVも変換器も結構も簡単に入手することが出来たんですけど、RFコンバーターだけ色んなの買って試して失敗して、秋葉原歩き回って… 石田先生: そうですね、秋葉原探すしかないですよね。 若林: でも結局、個人で変換器作っている方からネットで購入してなんとかなったっていう… だから、モニターにちゃんと写ったときは、嬉しくて万歳しちゃいました。テレビが点いたぞ〜!って。 石田先生: すごいですね、それは。あれは驚きましたよ。綺麗だったし。それが不思議で、すごくブラウン管だよなあと思いながら、けどなんでこんなにちゃんと映っているんだろうって。見事でしたあれは。 なんかあとは、若林さんの作品の後ろに水をクルクル回す作品があって。 若林: りょこさんの作品ですね。 石田先生: あれも面白いですね。音がね。 若林: そうなんですよ。実際に画面の中で鳴っている音を、手前のレバーを回すことで、画面の外のこちら側でも鳴るという。 石田先生: なんだろう、インスタレーションというか、ああいう、ものがある事によって、特にアニメーションの繰り返しとか反復ということがとても強調されて面白いなあと思います。で、その短い繰り返しの中で見入ってしまうのはいったい何故なんだろうって。 若林: そうですよね。他の作品もつい繰り返し映っていると見入ってしまって…
◆上映するアニメーション、展示するアニメーション
石田先生: もうひとつの部屋では上映形式で過去作品を上映していて、ああなると始まりがあって終わりがあるという映画なわけだけど、それとは別に、このブラウン管や小さな水車の部屋の作品たちのように、短い反復だけで見入ってしまう映像になにかアニメーションの秘密があるような、そんな感じがして面白かったです。 若林: ありがとうございます。 なんか今回の展示が、そもそも石田先生からアキバタマビの企画書を出してみませんか、というお誘いを頂いての実現でした。もともと私含め参加作家は今まで劇場空間の中で一つのプログラムに組み込んで上映する、という発表形式を主にしていて、アニメーションを展示するという経験は全員あまり経験がなく初めてという方がほとんどです。 石田先生: なるほどなるほど。映像を劇場ではない場所で初めてやれたのですね。 若林: 展示をするにあたって、今回アニメーションはすべて新作でとなっています。働きながら、私はまだ大学院に在学中なんですが、そういった状況の中でどう今回のアニメーションの展示を魅力的に実現するのか課題がありました。例えば今まで通り上映を想定した作品を新しく作るとなると、絶対に時間的制約や音楽・音響に対する技術的なハードルや、MAなどの実際の費用的課題があるため現実的ではないと。 映像作品は様々な要素が加わって一つの作品になると思うのですが、例えば物語・演出・作画自体について・音・技法・世界観・キャラクターなどなど。一本の作品となるとこれらが組み合わさって適したバランスをもってして完成になります。それを実現するには先ほどの理由により難しい。そういった外側の制約があるならば、それは受け入れて。アニメーションを構成する一要素に着目した展示をやりましょうとなりました。 石田先生: そういう意味で成功していたとおもう。展示することと上映する事は真逆なもので。一方の部屋は上映形式にしていたけれども、椅子に座ってもらって、作品の中に没入させるわけですよね。 一方の展示は「もの」があるように「映像がある」ってことだから、古いモニターのブラウン管があったり、撮影に使った原画であったり、装置であったりそういったものが置かれる事によって、作られた時間や反復する時間の構造とか、そういうものに思いを巡らせる場所だった。例えば、水クルクル回すやつって別に映像にリンクしているわけじゃないじゃないですか。それが不思議な音によってリンクしている感じというか、参加している感じになるんですよね。全然繋がってなくてもインタラクティブになってしまうのは何故なんだろうとか。 それと、原画や撮影に使用した物体の展示も、映像との対比をいろいろ考える。どちらも面白いんだけどその差が面白いのかなって。 若林: 私が思ったのは、展示でのアニメーション・上映でのアニメーションについて、先生のおっしゃった言葉にもリンクすると思うのですけれども… 両者を比較したとき、上映は(言葉は強いですけれども)そのある一定の時間、作品の為に観客を拘束する、作家側が始まりと終わりをコントロールしているものだなと認識しているのですが、展示は観客が始まりと終わりを決めるもので、且つ展示環境が映像の中身に作用するなと感じております。というのも、自分の作品を例に挙げると、今回の作品には裏テーマみたいなのがありまして「深夜に違うどこか遠い場所からふっと電波が入り込んできてしまった」という設定が自分の中であるのです。でも仮にこの作品をプロジェクターで投影したらこの物語は生まれなかったものなので、機材や環境が持つ意味みたいなのを作品の中に取り込むということが展示の大きな特徴なんだなと今回初めて実感したというか。展示やってみて面白いなと思いました。 石田先生: 確かにね。今の話でよく分かりましたけども展示の「ものとしての映像」と上映会で暗闇の中での「ものを介さない映像」テレビモニターという選択は「ものとしての映像」であって、混線して他の映像がどんどんどんどん入ってきてしまうっていうのは、昔のテレビはアンテナのちょっとした角度によって揺れてしまったり、あるいはザッピングしてチャンネルをガチャガチャ回したりして要するに映像を自分で作っちゃうところがあって。 若林: 確かに、今だったらエフェクトかけて編集して作るノイズだったりを、鑑賞者が生み出しているっていうことですもんね。 石田先生: もっというと、ビデオアートの一番最初、ナムジュン・パイクって人が強い磁石でモニターの画面を揺らしたりしたのがメディアアートの始まりといわれているけど、山口さんのあの仕事にはブラウン管がもつ安定しない感じがすごくよくあって。安定しない断片としてのイメージの反復だもんね。短い短いフッテージの羅列によって、なにかそもそも映像ってなんだっけと感じさせる楽しさっていうか、それに見入っちゃう。なんかねあんなな感じで、まだまだ出来そうだね。 若林: そうですね。なんかまた仕組みの話になっちゃうんですけど、あのテレビに空チャンネルがあって、そこにケーブルで繋いだ映像を入れ込んでいるっていう仕組みなんですよ。普段だったら、チャンネル回しているときに通り過ぎてしまうような場所で実はひっそりと映像が繰り返し繰り返し流れている作品なんです。 石田先生: おもしろい。すごいひらめき。 ◆物語と運動、言葉、作者の痕跡 若林: 石田先生の作品というのはそれこそ対「もの」で、部屋自体に線の連なりを展開させたり光を追いかけていくような印象を持っています。いつかのタイミングでお聞きした記憶があるのですが、先生は作品を作る際、終着点を決めずに制作されていると。 私は、物語アニメーションを主に作っているせいもありますが、作品を作る際、ラストシーンから決めて制作に入ります。ゴールに向けてどうするかと考える。作画方法も原画を書いて間を中割りしていき埋めていく。これもゴールに向けて作画を重ねていくといった形で進めていっています。制作は基本楽しいですし、自分のいきたい方向にアニメーションを進めていけるのですが、描かなくてはいけない義務やノルマのようなものも感じてしまい、遠くに見えるゴールに思いを馳せては途方もない気持ちになるのです。 そこで個人的に気になるのが、アニメーションの終着点を定めずに制作するという感覚についてお聞きしたいのですが、いかがでしょうか。
石田先生:
確かに、僕は肩書きをアニメーション作家と言ってしまえばいいくらい絵を描いてく作業をずっとコマ撮りしていく作品が多いんだけど、肩書きは大体「画家/映像作家」にしているんですね。可能な限りアニメーションという言葉は使わないですね。いろんな映画祭で上映をしてきたけどアニメーションの映画祭はちょっと少なかったり。やはりそこで問題となってくるのは、多くの場合アニメっていうのは物語に収斂してしまうというか、始まりがあって終わりがある、あるいは終わりっていうのが物語的な構造の中に落ちていくような形式の作品が多くて、どうやらそういうアニメーションじゃないな。 どっちかっていうと純粋に絵を描いていく行為そのものの中での運動に興味があるわけで、だから画家であり映像作家だし、むしろドキュメンタリーなのかなと思う。特に抽象的な絵でもあるので、終わりも何もわからないずっと途上で自分自身一体どういう風になるのかなと思いながら描いている。それと、抽象的というのは、これはもう一つの言い方でいうと、なんだろう、言葉ではないものというか、言葉から逃げる行為ということがあるのかも。誰々を描きますっていったら、誰々になる訳だけども、何を描いているか分からない宙ぶらりんな状態にいくっていうのが自分の方法だから、なるべく言葉から離れる。物語からも離れ続ける。 以前バッハの「フーガの技法」を抽象アニメーションにしたけれど、これがオペラとかファンタジアの「田園」だったら具象になるよね。
若林: うんうん
石田先生: でもそういう仕事のなかで、自分が描いている環境そのものに左右されていく、もう一つメタな物語の構造があって、例えば部屋の中に入ってくる光と追いかけっこするような作品、その日その日の光の角度や天候とか自分の調子の良さ・悪さであったり、その日に描かれたものが変わっていく。そして昨日書いたものの続きから始まるのだから決して毎回真っ白から始まる訳でもなくて、そういうことが大きな一つの新しい時間をつくる仕事になっているのかも。 若林: 終わりがどうなるかわからず作っていくことや、途上のいろいろな環境の変化で絵が生まれていくというのは、ある意味ドキュメンタリーでもあるのですね。先生の作品から、先生ご自身の姿は写っておらずとも線や絵の軌跡から描いた人の存在であるとか、肉体の動きなどを頭の中でリンクして鑑賞していたのですが、今「絵を描くこと行為そのものの」だとお聞きして合点がいったというか。 石田先生: 萌さんの作品は、もちろん絵も動きもとても素敵だけどやはり物語なんです。物語っていう事にどうしっかり向きあっているかっていう、その姿勢なんです。あの、僕はそこがとても大切な、もちろん絵も素敵だし、声も音もとても魅力的だけども、物語に対する自分の姿勢というか、責任っていうのがとても伝わってきて、そこに感動する。あの短いフッテージの反復でもそうです。 アニメーションという方法で物語ることって、実は実写の映画なんかより、とても大きな覚悟が必要なのではないかと思うんですよね。例えば日常的にTVアニメのたくさんの物語があるわけじゃないですか。子供が初めて出会う物語ででもあるし、声優の声がなくてもキャラクターの動きで素敵な物語が生まれるでしょ。 石田先生: だから、みんなに何をどう語るかっていう姿勢とか、世界にどう問いかける・寄り添うのかっていうその姿勢がまず問われる。萌さんには萌さんにしかない優しさというか、登場するキャラクターに対しても、観客に対しても両方に対してもとても切実に優しい。今作っている新作にしてもそうだけど、学部の卒業制作「眠れぬ夜の流れ星」なんか全員が平等に優しく愛おしい存在として出てくるでしょ。だれにも優劣がなくそこがいいなって。それって、作品を見る人に対しても平等にちゃんと向き合おうっていうことなんだなって思います。 若林: 私は先生とは反対に作品の中から自分の痕跡を消そうとしているのかもしれません。自分の作品と言葉は切っても切り離せない関係で、自分が書く台詞をキャラクターが喋る時、「自分が無理やりその登場人物に言わせてないか」すごく不安になります。 私が決めたラストシーンに向かって駒のように進めてはいないかどうか。そういったセリフや展開に自分の痕跡や存在感が残ってしまうと作劇上良くないなと思っていて、出来るだけフラットに出来るだけ登場人物が思っていることを言葉にしようと決めているのですが、実現できているか… 石田先生: 素敵ですね。キャラクターに無理やり語らせてないかって、そんな風に登場人物と話しながら作ってるんですね。 僕はそういう風に考えると勝手に絵を描いているだけで、あまりそこまで責任を持ってやっている訳ではない。だけど、責任を持たないでやろうとしている理由の一つは、この「物語」というものはあまりに強いもので、なんでも物語になるでしょ。自分がここにいるのも、こうやって喋っているのもなんらかの与えられた役割であったり、なんらかの関係であったり、それぞれ全部が物語である。 だけど、こういうことって一歩間違えるとてつもなく危険で。何かを信じて何かを大切に思っていることは、ぎりぎりのところで暴力でもある。ある人にとって信じて生きている物語というものは、別の人からすると全然相容れないものになっちゃったりね。 映画っていうもの、何かお話を作るとかあるいは自分が作ったお話を見てもらうとか、そういうことって当たり前のように無限にあるけれど、ひとたびふと冷静になるとそんな簡単に新たな物語を作ることはできない。本当に自分が責任を持ってみんなにあたらしいお話を提示できるだろうかと思ったとき、そんなに簡単にはできない。そんな感じが自分の中に常にある。 だから萌さんの登場人物に対しての姿勢と、見てもらう人に向けてしっかり伝えようとしている切実な感じ、そこに感動する。 若林: ありがとうございます! 現在新作として修了制作「サカナ島胃袋三腸目」というアニメーション作品を作っています。大きな魚の胃袋に棲まうブタの父・魚の母・オタマジャクシの息子の三人家族の物語です。 今までの作品は「第三者視点の語り手」によるナレーションが全編に渡って付いていたんですが、今回ではそれは取りやめて、登場人物の間で交わされるセリフとモノローグで構成している作品です。「第三者視点の語り手」は願望・欲求などの行動原理が対立関係にある登場人物間での中立的な立場をとって進行できたり、複雑な物語を分かりやすくしたり、色々と機能があると思うのですが、その反面決めつけ過ぎてしまうような暴力性が生まれやすいのかなとも思っています。 「サカナ島胃袋三腸目」では三者の行動原理が対になっている訳ではなく、微妙な関係で成り立っているので、そこに俯瞰して中立然としたナレーションを持ってくると、キャラクターたちの気持ちの変化を上手く描くことが出来なかったのです。結局、語り手=私自身になってしまうので、自分の痕跡をより消すようにして、物語の進行をキャラクターたちに委ねてみようという思いで制作しています。 石田先生: 本当に次の作品楽しみです!!!そしてぜひぜひ、物語をなにより大切にしつつ、今回の展示のように、絵が動いていることの楽しい展示も続けてください。あのモニターのやつは他にも4つくらいあっても良いかもしれないし。 若林: そうなんですよ、なんか今年10月に個展を控えていまして、それに向けてあのモニター買い足そう!と思ってネット探し回ってます。笑 それとはまた別に今後、今回みたいなグループ展をまた開催したいなと思っています。今回は世界観とかに着目しましたけれども、 他の要素「物語」や「音」とかをテーマにしてアニメーションの展示をやってみたいです。 いつになるか不透明ですけれどもいつかやりたいなと。 =========================================== 以上、石田尚志さんとの対談でした。ありがとうございました! 私自身、展示はなかなか足を踏み入れてこなかった領域なのですが、今回の対談を通じて少し理解が進んだような気がします。 上映作品を作っている時は内側へ内側への入り込んで制作している一方、展示する機会は外側から俯瞰して考えることのできる体験だなと感じました。アニメーション自体にフォーカスする、映像作品の構成要素に着目できる手段としてまた別の形で、別のテーマで挑戦できたら良いな…と思います。 こんにちは。池田です。 アキバタマビ21での展示に伴い、ゲストを招いてのトークが必須ということで、第一弾は私が最近お仕事で知り合った絵本作家の長谷川あかりさんとの対談です! ゲストプロフィール 長谷川あかり イラストレーター・絵本作家 多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業 広告制作会社・雑貨デザイナー・キャラクターデザイナーをへてフリーランスに 世界観やストーリーの見える絵作りを心がけています。 https://hasegawaakari.com/work では早速トークスタートです! 以下、池田⇨池、長谷川さん⇨長 池 今日はお忙しい中ご来場いただきありがとうございます! まずは展示のご感想からお話に入っていければと思います。 長 普段私は具象的なものを描く事が多いので、今回展示されていたみなさんはゼロから空想した空間や人物、キャラクターなどを制作されていてすごい面白い!と思いました。刺激的でした。 池 ありがとうございます!今回の展示のテーマが「ここではないどこか」なので、何も考えず好き放題できて楽しかったです。 長 池田さんの展示作品は色々な場所を描いていますが、イメージの元となる場所はあるんですか? 池 特定の何かが頭の中にあって描き始めるというよりは、モチーフをたくさん描いてPhotoshopで組み合わせていって空間を作るという事が多いです。 私は長谷川さんの絵の奥行きや温かみがとても好きです!アナログにこだわりがあるのでしょうか? 長 ありがとうございます! ペンタブだと描けないタッチがアナログでは描けるので、これからもできる限りアナログで描いていきたいです。逆にデジタルだからこそ表現できる色使いもあるので、手段として使い分けています。 池 今日は長谷川さんの絵本を持って来ていただきました! 池 (内容について)空の太陽ではなく、水面に映った太陽を掬うというのが面白いですね!水面にある太陽になら手が届きますね。あと食べ物の描写が、ふわふわそうだったり、ツルツルゼリーっぽかったり、温度感まで感じ取れてとにかく美味しそうです! 「お日様を入れたドーナッツを食べると目が覚める」とか「雲を入れすぎたドーナッツは食べたら浮いちゃう」とかアイデアも面白いですよね!ストーリーの作り方などお聞きしたいです。 長 興味のある事柄を元に、こんなことあったら楽しいなあというのを想像して作っています。好きなものについて考えているとアイデアが浮かぶことが多いです。あとは現実世界にはないけど、もしかしたらあるかもと思えるくらいの世界観で描くようにしています。 池 なるほど!結構スラスラ出てくるほうですか? 長 そんなことないですよ。 池 アイデアが浮かばなくなった時とかはどうしてますか?あとインプットのお話も聞きたいです。 長 アイデアが浮かばなくなったら一回考えるのをやめています。時間をおいて、場所を変えて考え直したり。 インプットは、図書館で絵本を読んだり、子供番組や教育番組などを見ています。教育番組は表現もグラフィカルで可愛いですし。あとは街なかの子供達を観察したり、子供のいる友人に子供の好きなものを教えてもらったりしています。 池 へ~。最近は大人向けの絵本などもありますが、子供向けを選んでる理由などあるんですか? 長 そうですね...子供は読んでいて面白いことを考えてくれそう。「そんなことないだろ」と冷静になってしまいそうなところを、のめり込んでついてきてくれそうだなと思っています。 池 確かに、子供の頃絵本を読んでいる瞬間って、本当にその世界にワープしていました。 長谷川さんは子供の頃から絵は描いていたのですか? 長 そうですね。小さい頃からから絵を描くのが好きで、ずっと描いてきたという感じです。 池 今あるキャラクターたちも、幼少期から存在していたのですか? 長 小学生のときはもっとくだらないキャラクターを描いていました。うんちのキャラクターとか。(笑) 池 そうなんですね。(笑) 私もくだらないものを作りたいと思っているので、そういうところは共通していますね。 最初から絵本作家になろうと思っていたのですか? 長 最初はイラストレーターや漫画家になろうと思ってました。高校生くらいから絵本作家を志しましたね。池田さんはどうですか? 池 私は何になりたいとかはずっとないですが、はじめてアニメを作ったときって意味分からない動きになるじゃないですか。 長 なりますね。アニメーションは難しいので、私の場合今作っても意味わからなくなると思います。(笑) 池 その意味分からないアニメを見て周りが笑ったのが嬉しくて、もっと面白い動きを作りたい!と思って現在まで続いています。 池田 2016年制作アニメ
池 話は変わりますが、コロナ以前以降で変わったことなどありましたか? 長 コロナ以前は、よく趣味の雑貨屋さん巡りをしていましたが、コロナ後は頻度がだいぶ減りましたね。その分ほとんど家で過ごしていたので、制作時間は増えました。緊急事態宣言のときは、午前中は人気のない所を散歩して、午後から制作するという過ごし方をしていて、今までより体調がいいくらいでした。 池 太陽を浴びるのは大事です。私は緊急事態宣言の時は外に出れないストレスで、制作ペースは落ちました。創作意欲がわかない時とかはどうしてますか? 長 創作意欲が湧かない時は無理に描かないです。でも基本的に描きたいタイプなので、ちょっとお休みしたいなとかはありますけど、描いてた方が落ち着きます。 池 あぁ素晴らしい、理想的です。これじゃダメなんじゃないかとか落ち込んでいくこともないですか? 長 あります。でもやるしかない!と思っています。 池 強いですね。確かに私も今まで、無理矢理手を動かしてみることでしか解決してこなかった気がします。 長 やり始めちゃえばできるんだって思うようにしています。笑 池 大切です。 以上長谷川さんとのトークでした! ありがとうございました! ☆締めの言葉☆ この記事は、録音した会話を聴きながら書き起こしたのですが、自分は人と話す時こんな喋り方をしてるのかぁと、最初気分が悪くなりました。得意のAfterEffectsで音声を加工したものを聴きながらやろうっかなとも思いましたが、やめました。声の問題ではない気がしたからです。なんか私は自信なさそうに自分の意見を言うのが気にくわないと気づいたので、これからは強くハキハキともっとペースを上げて会話を楽しめたら、と思います。よろしくお願い致します。 池田 |
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